2012年5月22日火曜日

ストレス

こころの問題と言えばすぐさまストレスという言葉が思い浮かぶほど、
ストレスは日常化しています。

そのストレスはあたかも私たちにまわりに
満ち溢れているかのように思われていますが、
そんなものが客観的に存在して、
私たちに外部から襲いかかってくるわけではありません。

ストレスというものは、自分自身が主観的にこしらえている幻影に過ぎないのです。


たかが幻影、されどストレス。
こしらえた本人がそれに悩まされ、脅かされて、
さまざまなこころの門譜代や困難を生み出しているのです。

ストレスに直面しそれに対して、克服しようとする本人自身の
努力で成り立っているのが私たちの日常生活です。
すなわち私たちは、こころの中で感じる「緊張の感じ」を
中心にしたさまざまなストレスをさまざまな仕方で体験し、
それに対応しながらこころの安定をはかっているのです。

普段の生活で私たちは、ストレスの種類や程度に応じて、
その都度体の緊張や構え、態度などを変化させながら、
それなりに対応・処理して、ストレスを変性・解消しています。

ところが、この処理は必ずしもうまくできるとは限りません。
ストレスを事故処理できるような適度な緊張の為の努力の仕方に馴染み、
体に過剰・不当な緊張が生じたら、それを自分で適切に弛めて
解消するような自己努力の仕方を身につけるほかありません。
それがリラクゼーションなのです。


リラクゼーションといえば、「筋肉がゆるむこと」と
思い込んでいる人が少なくありません。

按摩、鍼灸、マッサージ、振動などの物理刺激、
筋群や表皮への薬剤での刺激、筋弛緩剤のような生科学的な方法、
他人に動かしてもらう機械的な身体運動など一般に行われているのはそのためです。

もちろん、それらがそれなりの効果を持っていることは無視できませんが、
そのいずれかでも、そうした刺激の効果がなくなれば元の木阿弥になるのは必定です。

この厄介で不適切な緊張は、意識する・しないにかかわらず、
もともと自分が自分の体に働きかけて自らつくりだしたものですから、
その原因にさかのぼってそんな緊張をしなければいいのですが、
生きて生活している限り、人生はそれほど平坦無事ではありません。

平凡な普通の人間である私たちは、いつでも大なり小なりストレスを感じています。
それに伴ってさまざまに緊張するのは、当然のことなのです。
時にはそれがむしろ必要なこともあります。

このようなストレスの存在を前提として、それなりの緊張があった場合に、
それになるべく早く気付き、その緊張を弛め、
その緊張をしないですむような努力が出来るようになれば、
生活の仕方、人生の生き方までが大きく変化することになるでしょう。
巷間行われている筋の整理的な弛みを目的とするものではありません。

自分のからだの「緊張を自分で弛めた」という本人自身の心理的な
努力活動を目指しているのです。
本人がどうすればいいのか、それにはどういう難しさがあるのか、
その際にいかなる気持ち・体験の仕方をするのか、
どんな努力をする必要があるのかなどという、こころの内面的・主体的な活動を
指してリラクセーションと言っているのです。

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